人生は究極のリスク資産ではないか

金融商品のリスク・リターンや投資期間、流動性問題について考えていると、人生・命は究極のリスク資産(資産という呼び方が正しいかも疑問だが)だと考えずにはいられない。

人生のリターンについてて言えば、人生を通じて享受しうる幸せ・喜びというリターンは無限大だが、同時に人生の結果として受ける可能性のある不幸や苦痛も無限大である。

投資期間に関しても、長ければ100年以上、短ければ1日にも満たないものであり、自分で決めることはできない。

中途解約の側面についても、絶対にできないというわけではないが、自らの意志で終わらせるには、飛び切りの苦痛と恐怖に耐える必要があり、まず不可能と思っていいだろう。
仮にそのマイナス要素を受け入れて、終わらせる場合には、それらを受け入れてでも早期撤退すべきほどに損失(不幸・苦痛)を積み重ねた結果ということであり、恐ろしいほどの損を抱えての撤退ということになるだろう。

リスクについてだが、これは出産する両親・家庭の状況や生まれてくる国、タイミングに応じてある程度安定している(リターンにブレが大きくない)ということもあるだろうが、長ければ100年の投資になるもののリスクが低いとは言えないだろう。何らかのショック(有事)に巻き込まれる可能性は十分にあるわけであるから。

以上の通り考えてみると、人生・人の命はリスク資産としての性質をすべて強く備えているように思える。


子供を産むことについて

上のことを考えたうえで、子供を産むこと、出産について考えるとなんだか恐ろしい。

もし産み、存在することになった場合には自分にとって最愛のものになるであろう、それに対して、その意思をまったく把握することなく(そんな方法ないわけだが)、究極のリスク資産を強制保有させることと考えてしまうからである。

これに対して、出産を素晴らしいことと考える方は、「自分は産んでもらって様々な経験をし、幸せを感じてきた。産んでもらったことに感謝している」と主張するかもしれない。

しかし、自分の経験してきたリターンと同程度のリターンを自身の子供も受けられるという確証はどこにもない。
更に言えば、出産時点はまだ運用機関の途中(人生の途中)で起こるわけであり、多くの場合は期待される平均期間の半分ほどが残された時点で、人生のトータル部分に結論をつけているようにも思われる。平和に数十年幸せを享受したことが残りの数十年も同じように続くとはいえない。

また、自分は生きたい(この人生を過ごしたい)と思っていることから、これから存在することになるそれも同じように思っているだろうと思うこともあるかもしれないが、それはこの世を認識したあとはじめて生きたいだとかなんだとか思うわけであって、何も認識しえない状態であれば、産まれてきたいなどと思っているわけはない。

こんなことを考えていると、哲学の父タレスがなぜ子供を産まないのかと聞かれ、それに対して「子供を愛しているからだ」と答えたとディオゲネス・ラエルティオスのギリシャ哲学者列伝はいうが、タレスのこの結果の理由は違うだろうと思うが、私自身もうえの流れからこれは一つの素晴らしい答えではないかと思えてしまう。

ただ、「出産は悪いもの、善悪でいえば悪か」ときかれれば、そうでもないと思っている。
そもそも宗教や常識・慣習といったものが、人が意識しているか無意識にかはともかく人によって(社会・民族の繁栄のために)作られたものであるとすれば、そこから生じる善悪の判断も適当に私たちが作ったものであり、自然本来的な善悪など存在しないと考えているからである。
主観的な考え・思想、思い、法律や常識、道徳といったものによらなければ、産むことにも、殺すことにも、善さだとか悪さなどといったものはないのではないか。

なので、結局は考え方、思想の問題にいきつくだけで、産みたいなら産めばいい、産まないべきだと思うのであれば産まなければいいとただそれだけな気がする。


ここからは少し話がそれるが、勝手に産んでおいて、生まれたことへの感謝や育ててくれたことへの感謝を強制するような家庭や社会は、なんだか自分勝手なようには思えてならない。子育ての苦労はある程度どのようなものか予想がつき、それを理解したうえで、自分が育てたい、子供を産み育てることからその苦労以上の達成感やらなんやらといったリターンがあると判断し、産みたいと思って産むわけなのだから。
自分が育てたいと望んで勝手に産んでおいて、感謝しろというのは、勝手がすぎるだろうし、このようなことを強制しない、世の中になってくれればと思う。