出産の不道徳と反出生主義のすすめ
- 2023.07.23
- 雑記・考え
出産という悲劇
「子供は親を選ぶことができない」
この広く知られた言葉の通り、子供は生まれてくる両親や家庭を選ぶことはできない。
生まれてくる子供はその意思に関わらず、生んだ親に依存し、その家庭で生活することを強制される。
これは時に暴力的な環境や悍ましい貧苦を子供に強制することを意味する。
生まれた家庭の貧困は彼らから将来のあらゆる機会を奪い取る。
教育や習い事の機会が乏しいことは言うまでもない。娯楽、旅行、あらゆる経験にも裕福な家庭に比べれば乏しくならざるを得ない。
更に悪い例では貧しさだけでなく、家庭内で両親からの暴力、精神的な虐待にさらされることもある。
しかし、子供は死の恐怖から逃げるために生まれた家庭へ絶対的に依存せざるを得ない。
彼らは死の恐怖を避けるために家庭内暴力を受け入れなければならないわけである。
上記の家庭の貧困や暴力といったものに対しては、「暴力的な人間や貧困家庭が子供を生むことが問題であり、全ての出生に問題があるものではない」との反論がなされるかもしれない。
しかし、はじめは子供に暴力を振るうつもりがあったとすれば出産などするだろうか。出産当時に家庭が困窮していなければ、その後も困窮しないと言えるものだろうか。
まず、前者についていえば、暴力の対象となるような目障りな存在をわざわざ作り出そうとは通常思うわけがなく、計画的出産の場合には、はじめは子供が欲しいと思っていたが、出産後に何かのきっかけで子供に暴力的になってしまうという流れが通常ではなかろうか。(無計画の結果や何らかの望まぬ出産の場合はこの限りではないが)
自分がはじめから子供に暴力を振るうとわかっているような者は子供など作らない。後天的に子供に暴力を振るうようになるのである。
家庭の経済状況も不況や両親の事業失敗等によりどうとでも変化しうる。
出産時に将来の貧困との無縁を確約することなどできない。
つまりは、「暴力的な人間や貧困家庭が子供を生むことが問題」との主張は出産時点に注目しているにすぎず、出産というものが出産以後に両親が暴力的性質を帯びることや家庭が困窮するリスクに生まれてくる子供をさらすことを無視している。
子供を強制的にそのようなリスクにさらしている時点で出産という行為に正当性はあるものだろうか。道徳的なものであろうか。
さて、次に先天的な障害等のリスクについて考えてみれば、これは両親の心がけや努力ではどうにもできず、出産をするからには子供をこのリスクにさらすことを避けることは難しい。
これに対して、障害があっても幸せになれるだとかの意見もあるが、それは結果として幸せになった立場の者からの主張に過ぎない。
その背後にどれだけ不幸の不幸が認識されずにあることだろうか。
出産の身勝手さ
主産に伴い生まれてくる最愛の子供の意思を確認することはできない。
つまりは出産とは意思確認を伴わずに強制的に人生を強要することである。
(もちろん命を与えられた後に途中で中断することもできるが、死の恐怖と苦痛を受け入れるという大きな代償を支払わなければならず、実質的には出産は人生の強要であると考えて差し支えないだろう)
両親は、自分たちが子供が欲しい、子育てをしたいという自らの欲求を満たすために、子供の意思確認を行うことなく彼らに人生を強要するのである。
なんと身勝手なことだろうか。
更に悪い場合には、自分たちが子供を育てたいからと考えて生んだにも関わらず、「育ててもらったことを感謝すべき」などと感謝さえ要求する者もある。
こんな身勝手なことが人間社会においては絶対的な肯定と祝福の対象になっているのだから悍ましく、嘆かわしい。
さて、この考え方に対しては、「生まれてきてから幸せや喜びを感じたことはないのか。世の中には生まれてきてよかった。生きるのが楽しいと考える人は多い」との主張がなされるかもしれない。
しかし、生まれてきてよかった、人生を楽しみたいという思いは生まれた後の結果として起こったものであり、そもそも生まれなければそんなこと自体思うことなどあり得ない。
意思を尊重することが不可能な状態で生まれてきたいと思うことのない(生まれていないのだから何かを思うことなどあり得ない)者に強制的に人生を与えることは不道徳ではないだろうか。
出産に肯定的な価値があるかは疑問でしかない。
理想論的には子供に本来与えられるべき生まれてこない権利が存在しえないことがなんと不幸なことか。
それらの権利の不在のために、我々は自らの意思が尊重されることなく、選択の自由を否定からのみ生まれ出るのである。
人間の繁殖の意義と価値
さて、上述の通り意思に反してあらゆる理不尽を強要する恐れのある(少なくともリスクを強制する)出産には価値や有意義な意味はあるのだろうか。
人間は生まれてくる者たちの意思を蔑ろにしてでも繁殖する必要があるのだろうか。
仮に人間の繁殖に肯定的な意味を与えることができなければ、出産には身勝手さと意思確認の不在という不道徳だけが残されることになる。
ここでの意義は超全的、自然本来的な意義のことを示すものとする。そうでないなら人間が後から理由を作り出していくらでも意義を付与することなど容易く議論の意味がなくなるだろう。
さて、繁殖の必要性についてよく主張されるところでは、人類の繁殖がなければ社会機能を維持することができないとの主張があげられよう。
しかし、これは無条件に人間社会の継続性に価値があることを前提としているが、果たして人間社会の存続に意味があるだろうか。それが存在しなければ人類が不幸になると言う者がいあるかもしれないが、人類の幸福か不幸化に何らかの意義はあるだろうか。
人類が不幸の中で消え去ったとして何の問題が残るというのだろうか。
人間の繁殖について人間の不幸どうこうではなく宗教的な観点から神が人間の繁殖すべきだと決めたのだから、それに従うべきだとの主張もあるだろう。
この主張においては神の希望を叶えること、目的を達成することに価値があるとしているように思われるが、果たして神の目的達成に価値や意義はあるのだろうか。
それどころか神という存在そのものに何らかの超全的、絶対的、自然本来的な価値や意義があるものだろうか。
神さえも存在しなかったとして何の問題が残るであろうか。
このように思えば、このように”有る”ものが全て”無い”状態になったとして(有るという概念さえ消え去るような絶対的な無の状態になったとして)何の問題があるだろうか。
(問題など残らないわけだから愚問であるが)
以上の通り、あらゆる意義・価値はある種の無限後退の渦の中に飲み込まれ、消えてなくなる。(最後に残されるのは己の主観のみでありそれがある種の神認識となるとも思うわけだが、この話は一先ず置いておくこととなる)
これが正しければ、人類の繁殖と存続の意味もその他のあらゆるものの意味とともに消え去り、出産には身勝手さと意思確認の不在といった不道徳だけが残ることとなるものと考えられる。
異常をもって私は、出産・出生は不道徳なものであり、避けるべき身勝手な行為であり、それを避けるべきだとする反出生主義は広く受け入れられるべき思想であると考えるに至る。
(最もあらゆる意義の否定と同じプロセスで善悪の存在も消し去られ、善悪は主観にのみ委ねられることとなろうことから、必ずしも身勝手な行為が悪であるとも言えないわけではあるものの、少なくとも私の主観からは出産は身勝手な悪行だと看做している)
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